〔〔栗原彬氏講演会記録〕〕
(2003/7/15更新;当日配布レジュメ追加)
「サブシステンス(生命・環境)への暴力と平和」
予定討論者:和田 悠(PP研サブシステンス研究部会・慶応大学大学院博士後期課程)
日時:2003年4月19日 15:00-18:00
会場:明治大学駿河台校舎研究棟2階 第9会議室(リバティータワー裏)


栗原 彬氏 講演記録 文責:宮寺 卓

「サブシステンスへの暴力と平和」

 日本平和学会関東地区研究会とピープルズプラン研究所サブシステンス研究部会及び環境・平和研究会の三者の共同開催による栗原彬氏の講演会が,2003年4月19日明治大学において59名の参加者を得て開催された。

 栗原氏は最初に昨今のグローバリゼーション(地球市場化)がサブシステンスへの攻撃を強めていることを指摘された。アメリカ主導のグローバリゼーションは自由競争や自己決定性を強調するネオ・リベラリズムをその思想的基盤としている。それは情報の民主化(万人が発信者となる),資本主義の民主化(万人が投資家・実業家となる),文化の民主化(多文化の承認)を含む民主主義のグローバル化をもらたすとされている。しかし,現実には社会的格差の拡大と,差別や排除などを生じさせている。それは現実においては学歴など象徴資本(資源に対する)の格差が自由競争の事前に存在することによる。

 このようにグローバル化によって発生するのは,単なる格差の拡大に止まらない。この点における重要な指摘として,イリイチが指摘した「社会圏の市場化」とヴァンダナ・シヴァの指摘する「生命への海賊行為」がある。社会圏の市場化とは生活に直結する運輸や通信,医療や福祉などが市場経済化されていくこと,また地域やエスニックな文化が商品化されていくことを指す。生命への海賊行為とは,近年のバイオテクノロジーの発達によって,例えば種子を種苗会社に依存するようになったり,また遺伝子情報への知的所有権の設定による商品化,さらに人間の臓器までをも商品として売り買いする現状を指している。これら二つの指摘はグローバル化が人間のサブシステンスに対する暴力を生み出していることを明らかにしている。

 では,このようなグローバル化は世界を完全に覆ってしまうものなのか。栗原氏はこのグローバル化には亀裂が存在すると指摘される。現在の社会は市場化システムの中心域と周縁によって構成されるが,その双方において亀裂が存在するという。

 中心域における亀裂は,例えば,地域住民の様々な運動や市民活動に典型的に現れる。そこで示されているのは,行政や企業が推進する公共性と,市民・住民の提起する公共性との衝突であり,ここに中心域の亀裂が存在する。周縁においては周縁の中心部は市場化システムの欲求を代理する準中心域と化しているが,周縁の周縁は抑圧と排除の対象とされ,システムの矛盾が集中する。そこでは亀裂の存在はより明らかである。

 中心域における亀裂(エッジ)と周縁における亀裂が響き合い,共振すること。それがこのグローバル化への抵抗の可能性を生み出すと栗原氏は期待する。


 次ぎに栗原氏は二つの模式図を示して現代社会の編制を説明された。最初の図はヘイゼル・ヘンダーソンに着想を得た「デコレーションつき四段ケーキ」である。このケーキは下から自然,親密圏,社会圏,公共圏の四層の土台があり,その上に市場圏のデコレーション部が載っている。市場圏つまり商品経済の領域が私たちの生を支えているように考えられているが,その下の諸相が存在して初めて市場圏が存立しうることを,この図は明らかにしている。


 私たちはこの図を,市場圏がその下の各層を抑圧する,という風に読みとりがちであるが,栗原氏はむしろ各層において近代化に起因する問題が存在することを提示される。それは,親密圏における男女の権力関係であり,社会圏における障害者などの排除,公共圏における「自己決定権」の諸問題等である。さらに栗原氏は一見して盤石に見える市場圏と公共圏にも先ほどみた「亀裂(エッジ)」が存在することを指摘された。

 もうひとつの模式図は十時のグリッド図である。左上から時計回りに経済,政治,社会,文化の四象限が描かれ,さらに中心部には生命圏が置かれている。この図の意味するところは,今日の経済,政治,社会,文化が,生命圏から離れたところに存在し,一方,それに対抗し,図の中心へ,つまり生命圏へと向かうベクトルも存在するということだ。計算合理性を原理とする通常の経済と綱引き関係にあるのは,非営利,非所有,贈与を原理とする経済活動の領域である。自己決定を原理とする政治と対抗するのは,非統治的・被支配的で他者への配慮を重視する自律性の領域である。社会と対抗するのは統合あるいは社会形成を目指さない,歓待やホスピタリティの方向性だ。文化と対抗するのは国民的な同一化に反対し,異質を含んだ交流を求める方向性である。

 この模式図は今日の社会が生命圏からかけ離れたところに重心を置いているということを示している。したがって,サブシステンスを再構築しようとする運動は逆に中心部へと方向性を持つと考えることができる。しかし,同時に,栗原氏は生命圏への過度の憧憬に対してもその問題点を指摘する。生命圏とは「生の形式が書き込まれる場」であるとされる。つまり生は豊かなものでも貧しいものでも生であり,生命圏の方向へと向かおうとする営みは,豊かな生の形式を書き込もうとするものだというのである。


 栗原氏は最後に,サブシステンスを「ことば」と「道具」の観点から考察された。例えば,水俣の「のさり」ということばがある。これは贈り物を意味するが,そのことばで水俣病を表す患者が。水俣病は災難であるが,逆に水俣病に罹ったことで,人間について,社会についてより深く知ることができたというのだ。ここに示される弱さ,傷つき易さ(ヴァルネラビリテ)に伴う感受性の高さ,応答可能性(レスポンシビリテ)はサブシステンスの重要な要素として提示される。

 もうひとつの観点は道具の分類である。イリイチの『コンヴィヴィアリティのための道具』にある道具のスペクトル図を栗原氏が改訂したもので,左には「ホーム」が右には地球市場が置かれ,その間に様々な道具が配置されている。左に配置された鉛筆,自転車,散歩道などはサブシステンスを強化する道具だ。ここに栗原氏はパソコン,楽器などを追加される。一方,右に配置された多国籍企業や軍隊,学校などは地球市場化を強化する道具である。こちらには遺伝子組み替え植物,バイオテクノロジーなどが追加される。

 右から左へ,サブシステンスに向かっていく動きに必要となるのは共生のガバナンスの推進だと栗原氏は指摘する。そして,サブシステンスをもたらすのは市民や住民だけではなく,例えば企業活動においては共生会計など,それぞれの領域でサブシステンスの方向へ動いていくことが可能でありまた重要であると指摘して,講演を締めくくられた。


 予定討論者の和田 悠氏(慶應義塾大学大学院)のコメントは栗原氏の初期の著作から今日へと至る思想の歩みを総括し,さらにそのサブシステンス論の特徴を明らかにしようとする野心的なものであった。和田氏は政治システムに対抗する民衆の心理的内面への関心は栗原氏の研究の初期から一貫したものであったとし,その中で特に1990年代における水俣病患者との関わりが転換の契機となり今日の栗原氏の思想の特質を形成していると指摘された。サブシステンスの理解においては,民衆における倫理性をサブシステンスの重要な要素とみなすところに特徴があり,その点では『環境を平和学する!』(法律文化社)で提示された横山正樹氏のサブシステンス理解と通底するものがあるとされた。



 フロアからはまず,水俣病闘争に関して栗原氏は裁判闘争から降りた緒方正人氏を評価するが,やはり権利のための闘争は重要ではないか,という指摘がなされた。栗原氏は裁判闘争は人権の侵害を賠償金で償うという結果しか生み出さず,人権を越えたレスポンシビリティ(応答可能性)を見えなくしてしまうのであり,緒方氏の行為は水俣病をめぐる闘争をより豊かにすることだ,と答えられた。

 次ぎに東南アジアなどのフィールドでの経験から,サブシステンスと市場経済の領域の区分けをどこに設定するかは難しいというという発言がなされた。栗原氏はその区分けは特定の場所に設定されるのではなく,サブシステンスは「亀裂(エッジ)」のところに顔を出すものであり,その場所は常に変わっていく,領域の設定ではなく諸個人の実践的な身振りの内に見いだされるものだ,と答えられた。


 最後に環境平和研究会(日本平和学会環境コミッション)でこれまで継続してきた研究と今回の講演の関係について簡単に触れておきたい。和田氏が指摘されたように栗原氏の視点は民衆ないし個人の心理や欲望のあり方に焦点を当てるものである。それに対して私たちの研究は,社会科学の主流と同様に社会構造の分析を志向してきた。こうした構造分析的なアプローチの問題は,研究が進むほどに近代社会の仕組みの強固さが明らかとなり,批判や乗り越えの可能性が見えなくなってしまうことにある。

 特に構造主義(大雑把にいえば,諸個人の欲望や意識が社会構造によって決定される,その仕組みを明らかにする方法)以後の研究は,栗原氏も指摘されたように,この陥穽に陥りやすい。栗原氏の構造の「亀裂」という視点は,このような状況に対して,確かに新たな視点を提示するものと言えよう。

 その一方で,栗原氏に対しては,亀裂が亀裂のままで良いのか,という問いがどうしても生じてしまう。亀裂がより大きな変革を生み出すのか,亀裂のままで終わるのか。その判断は亀裂が生じている当の社会構造の把握の仕方に依る,というのが正しい答えであろう。すると最初の問題に立ち戻ることになってしまう。講演が終わったときに,私たちはこうした難問に直面して,眉間にしわを寄せて考え込んでいた。

 ・・・というのは真っ赤な嘘である。栗原氏とコメンテータの和田氏をはじめ,みんなで居酒屋に繰り出してコンヴィヴィアルで愉快なひとときを過ごしたのであるから。


<当日の録音ファイル>

栗原氏講演部分(9022KB)

和田氏討論部分(9218KB)


(大きいファイルです。高速回線でどうぞ。)
再生には以下のプログラムが必要です。

http://www.olympus.co.jp/CS/VT/softDL/J/index.html



<当日配布のレジュメ>
(改変後の再配布を禁ず)

栗原氏講演部分レジュメ(工事中)

和田氏討論部分(MS-WORD形式Acrobat(PDF)形式)

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