以下は、伊藤さんがとった議事メモです。とりあえずほぼそのまま掲載します。
サブシステンス合宿@勝俣亭
2001年8月11日
第1回ミーティング 午後4時半〜6時
<テキストの目次・形態について>
目次作り
構成・・・コラム・写真・図などを含めどの程度入れるか → 早期出版なら入れない方が早い
仮タイトル・校正一覧表
序 | 郭洋春 |
なぜ環境問題を平和学から捉えるのか | 戸崎純 |
平和・暴力・不条理な苦痛と環境問題 | 横山正樹 |
サブシステンスとは何か | 宮寺卓 |
世界システムにおけるサブシステンス―ウォーラーステインの視点から― | 宮寺卓 |
国際政治学におけるシステム論的世界観とその問題―覇権安定論と国家安全保障― | 蓮井誠一郎 |
平和NGOピースデポの取り組み | 秋山祐子 |
平和NGOピースデポの存在とは | 秋山祐子 |
平和学から見た環境問題と社会・フィリピン的場合 | 山田修 |
ベトナムの歴史(仮題) | 越智美奈 |
ベトナムにおけるNGOの空間(仮題) | 越智美奈 |
平和学から見たバイスの食糧問題 | 伊藤美幸 |
人口抑制と暴力 | 伊藤美幸 |
避妊と自己決定 | 小川景子 |
いい開発と脱開発のはざまで | 鶴田雅秀 |
おわりに 総括 | 郭洋春 |
形態・・・・1章25枚×400字で、約16(または12)章で200〜250ページ前後
出版・・・・自費出版(私家版)でも4月に配布
商業出版するならば9月末脱稿、持ち込み&複数稿に半年
目標・・・・来年度の授業に使用するため
内容・・・・今年度サブシステンスについて取り組んだ講義ノートを世に出す。
(一般書・普及書レベル、大学1・2年生対象の平易な文章)
郭 立教授業は我々の考えるサブシステンスを学生にぶつけ、どう考えるかを問うた。
→次回 今回分からなかった部分を補足する。
授業としての一貫性は講義ノートとしても必要。流れがないと駄目
初めにしっかりした柱・骨子を作って、その中での自分の担当をこなすことが望ましい。
第2回ミーティング(非公式)午後8時〜12時
<出版について>
戸崎 商業出版は皆がやろうというなら、やればいいのではないか。
横山 今のところ自費出版でないと嫌という声はでていない
戸崎 やりたくてもスケジュール難しい。9月10日前後に四国、かえって直ぐ学校始まる。実質的な実務を少なくするためには、おめつけ役とともに実務担当必要。まとめは各自分担でするよりも一極集中の方がいい。
横山 企画としては出版社に持っていけるものが揃ったと言える。私家版だけで終わらせるのは惜しい。4月出版のためには、9月末まではほぼ揃わないといけない。
戸崎 この後、テキストの目標・軸を組み直しをし、自分の担当を明確化し、足りないところを付け足してもらって、この一点突破、全面展開できるようならする。できそうなら担当を決める。
<サブシステンスに関連しての思い>
横山 自力更生だけでは突破できない限界がある。自力更生の議論は、環境問題抜きでもとりあえずは可能であるという点がある。
戸崎 SD(持続可能な開発)についての中身についての議論は、支配的な意見は持続可能性が発展に組み入れられてしまっているというもの。環境との調和にウェートを置いた概念もあったが、勢力としては弱くなってしまっている。
サステイナブル・ソサエティー(共同体)についてはいろいろな議論があるが、どのような市民社会を作り上げていくかが問題。自立した個による市民連帯とは、すなわち近代の終着であり、それは環境破壊を行なっていくことである。個の自立化を余儀なくされた人々が再び結びつくにはどうすればいいのか?このような問題を解決していく上で地域性は欠かせない。
開発をどう捉えるか?北の状態をどうもせず、南を開発すればと問題解決というのは資源的にも限界。開発というのは他者を「道具化」していくものであると思う。サブシステンスとは他者を道具化しない、勝ち組み負け組みを作らない
伊藤メモあやふや → 秋山さ〜ん!
横山 アイデンティティ、セルフ・エスティームなどはエンパワーメントの考えでも出てきたが、エンパワーメントという言葉で切り落とされてしまうものがある。
郭 グローバリゼーションとは全ての人をアメリカナイゼーションにしていくことで、全ての人を救うという考え。サブシステンスよりもまし。横山 サブシステンス=共同体論では、古い共同体の桎梏、例えば女性や若者には発言権がないなどの問題がある。我々が提起しようとしているのは、そういうもの社会ではない。現代版のサブシステンスにしないとならない。
近代は全てを個に帰結させようとする。所得も暴力も皆個人に。
しかし自と他、あるいは個と他、さらに個と共同性の違いなどは分けられない。人間には他を思いやる共感力などがあり、自分と他人は実は切り離せないのである。しかし、競争していくためには分けようとせざるを得ない。
宮寺 個の競争によって、集団のために利益になる場合もある。
伊藤メモあやふや
横山 サブシステンスというものに倫理はあってもいいが、それがなくても上手くいくシステムでないといけない。
「合理的なシステム」という際の合理性とはある枠組みの中でのものに過ぎない。複数の合理性が存在することになるなら、そこには普遍性が求められる。そのため合理性の理論には問題がある。
第3回ミーティング 12日9時30分〜11時 勝俣先生をまじえて
横山 「サブシステンスを考え始めることになったいきさつについて」
自分は70年代当時のアジアや第三世界ブームに興味があり、その当時もアジアには反日感情が存在していた。自分はその理由は貧富の差ではなくて、経済格差であると考えた。
平和学会、国際平和研究所などの研究に興味があったが第三世界からの参加が少なく、西欧一辺倒。構造的暴力の概念など気にはなっていたが、手をつけていなかった。自身は自力更生や開発主義批判を手がけてきたが、主流の開発論にインパクトを与えるまではいかなかった。もっと第三世界の状況に立脚した理論を、そして、どのようにグルーバリゼーションに対抗していけばいいか、そういうことを考えていた。
イリイチの言ったサブシステンス理論は玉之井さんが取り上げていたが、イリイチの書いたことは材料としては使い切れてない点がある、けれども、大事な部分はある。例えば、自分が知っている太平洋の島国の生活での、自給自足経済などの解体されてない社会として世界にばらばらにある生活をまとめていくと、サブシステンスが何かわかるのではないかと思う。
昨年に会議に出席した際、勝俣先生から振られたサブシステンス。それには戸崎先生も大乗り気であった。
自分はサブシステンスを平和と結びつけて、本来性を実現せしめる諸条件として捉えようと思う。それは循環系としての環境と人間集団の生活であり、個ではなく集団としての存続をなさしめるものである。それがサブシステンスなのではないかと思って、今現在、練っている途中である。
勝俣先生 「アフリカの観念からの考えるサブシステンス」
いろいろな入り方有ると思うが3つほど述べたいと思う。
1.アフリカでなぜサブシステンスか?
サブシステンスを僕は食べものが原点だと思う。なぜなら、「生きるためのどうしても必要なもの」はイコール食べものだから。15、6年前、ダカールに教師として住んだ。アフリカ人の同僚達にとっては、まず何はともあれ食べものを確保することが重要。食べものを家族達に配らないといけない。食べものと学ぶことが非常に密接に結びついている。学者でも米の値段などしっかり知っている。食べもとの同じく水がないとやっていけない。水は尋ねてきた客人にまず振舞われる。農業は途上国に行けばいくほど、重要。
アフリカで教えられたことは、感触性(tangibility)とでもいうような目方での認識の世界である。アフリカの言葉に「杭の周りの草は食べ尽くさないといけない」というものがある。『お腹の政治』(“Belly’s politics”)という本の中では役職についたら、汚職して、自分の家族たちのために稼がないといけないという意味だと説明している。それに比べると、東京では食べものが感触性がない。次に、生きることの意味。それは彼らの豊かで強力な意味世界。信じる世界の力の強力さ。農地を作る際の柵のためにお金を募っても集まらないが、教会(宗教)のためにならお金が集まる。今という時間を大切に使い、効率を求めない。
2.それが自分のやってきた学問にどう影響したのか
南北問題を研究してきたが、アフリカは人があまり動かないという前提があるため流通に対して生産と収集が優位である。家畜を飼い草を食べさせるので、労働はあまりいらない。移牧、遊牧民、収集民たちの生活は豊かな生活とも言える。
市場・国家とは結局のところ、人間が作った取り決め・制度に過ぎない。移牧、遊牧民、収集民にとってはどうだっていいもの。制度よりも、彼らにとってもっと重要なのは自然の中でどう生きていくかということにある。市場はルールを作っていくから、感触性などの生活部分が落ちてしまう。
グローバリゼーションとは交易という、ものとサービスの交換を認めるから成り立つものである。アフリカでは、交易されていた地域もあるが、交易がされていなかった地域もある。そういうところに鍵があるような気がする。
国家といっても国民になりきってない人も多い。構造調整などの教科書的なノームを実際の社会にあてはめようとする。(伊藤メモあやふや)
3.地域研究
地域研究を行う際、ディシプリンは何なのかという課題。地域研究者は、何でも屋でもあり、何にも属していないことにも取れる。問題の切り方がへゲモニックになってしまわないかという問題がある。そういう意味で既存の学問体系と地域研究をどう折り合いをつけるかが問われる。
自分としては、「所変われば品変わる」を表現する人文地理学(Human Geography)がいいと思う。例えば、アジアの朝貢貿易は2000年の間、威信財がやりとりされてきた。WTOなんてたかだか50年。
産業の高度化といわれる農業から手工業、手工業からサービス産業へという3段階。それを段階としてではなく、ある地域に必要な3つのセットとして捉え、どう地域に還元していくかを模索していくことが重要。市民社会という観点も必要。南北問題は南が北になることではない。住み分けである。
ガンジーの『ヒンドゥー・スワラジー』という短い本の中で、3つの??(伊藤メモあやふや)があるという。1つ目の弁護士は地域内の揉め事を調停すること、2つ目の医者は食べ過ぎを治す、3つ目の鉄道では余計な知識やモノが入ってくること
コメント
戸崎先生 「サブシステンスについての自分の考え」
我々の生活・システムは飢えないように他所(よそ)に支えてもらっているが、よそはもっと危機的状況にある。我々の生活をもっと可視化していくことから、解決の糸口をさぐりたい。
アジアの自立努力 国民経済の自立をして初めて、政治的な自立できるという考えが国民国家の形成にはあった。70年代 新国際経済秩序(NIEO)は自立的な国民経済を目指していたが、国家の中での格差構造を生んでった。また現在は、多国籍企業が国家を乗り越えて経営していく。
新従属論は最近言われなくなったが、中心と周辺がどのような地域にもできる、入れ子のような構造からどう脱却するか。新従属論への批判として、近代概念の国家という枠組みを入れていないから、南の発展を視野に入れていないというものがあった。でも新従属論はとても重要なことを提起していたのではないだろうか。
開発主義は開発教、冷戦下の世界をくくるキーワードだった。1972年のストックホルムの人間環境会議とそこでのサステイナブル・ディベロップメントの概念は、成長や開発の概念では南北問題は解決できないということに達した。帝国主義、グローバリゼーションに対抗するためにサブシステンスという言葉が使えるのではないかと思う。
「市民連帯」について、市民連帯とは個々の市民が自立して、かつ連帯していくということだ。では市民とは何なのか?コンビニで生活するような、地に足をつけてない人々しか浮かばない。つまり、特権的な階層としての市民。経済的には資本賃労働、政治的には投票権など。市民をシステムを変えうる力となるのではないかと考えた。しかし、賃労働をする市民、流通の場から考えてしまっていた。
コメント
勝俣 サブシステンスの色濃く残っている地域の人々、政治について叫ぶ若者達を市民と呼ばずになんと呼ぶのか?
貧困や飢えを克服し生きるためにサブシステンスは使えるのではないか。だが、前近代的なものの再建ではないはず。地域をきちんと詰めないといけない。
課題
サブシステンスの主体とは何か?
新しいサブシステンスとはどのようなものか? 制度か状態か?
地域とは何か?
教科書に関連して、どうするのか。
第4回ミーティング 12日午後2時半〜4時半まで
「サブシステンスという概念の位置付け、明確化」
横山 今まで多くの人が気になるけど、展開していない。限定的にしか使っていない。
戸崎 サブシステンスという言葉でなく、例えば地域主義やアソシエーションという言葉では駄目なのか。
地域主義はいろいろな人が議論している。また国民国家とは異なる枠組みというのが立脚点。アソシエーションだとあまり環境は含まれない。
サブシステンスとは何か?・・・・環境・エコロジーの側面と人々の共生という点。
サブシステンスという言葉で何をなそうとしているのかが問題である。
北と南も含む。
地域主義(内発的発展)は開発主義に組み込まれてしまった。地域主義よりもラディカルで可能性なものとしてのサブシステンス。
宮寺 地域主義やアソシエーションは方向性・規範性の概念、サブシステンスは実態としてなのではないか。
戸崎 いや、我々の言うところのサブシステンスとは規範なのではないか。
宮寺 実態・規範の2重でかまわないけれども、分けないとならない。
横山 現存する実態が、新たに意識的な行為によってできあがるというのではないか。
戸崎 伝統の確信とも言える。それは玉之井さんの考えに強く影響を受けている。
横山 資本経済に対抗しうるものとしてのサブシステンスではないか。
戸崎 地域、地域が昔から維持してきた、あるいはかつてあったサブシステンスを復興させるということか?
横山 旧態にはかならずしも良いものばかりではなく、悪い面も混在している。そして、悪いものだけを取り除くことはできない。けれども、ある種の近代化を遂げつつ。いまだサブシステンスが残っている地域もある。例えば南太平洋の島々。
宮寺 規範とはこうあるべきということ。それが望ましいというもの。農耕・牧畜・林業などが従来のサブシステンスの意味だろう。市場経済をうけつけない自給自足という意味。
アソシエーション 自由な個人が再度共同体を作る。
サブシステンスとは、完全な自給自足ではないけれども、単なる未来社会を言っているのでもない。プロセスを考えるための枠組み。立脚点。陣取りの仕方としてのサブシステンス。
サブシステンスの意味
循環的な更新の原理
ぎりぎりかつかつの生活
自立自存の経済の領域、市場に依存しない生活
アソシエーションは都市のメタボール(物質代謝)は説明可能だが、農村まで含まれない。代謝は生命体の生の営み、個は死ぬ、けれどもシステムとして環境は循環する。
サブシステンスはメタボール的なものであり、人間社会も含む。
勝俣 南北問題には搾取の構造あるけど、南には人々の生き生きした面もある。それは分析するに値する部分だ。自分の友人がもし、次に望む世界として「多様性を格差に転換させない社会」と言っていた。規範的な面も入る。サブシステンス・・・触感性や物質性が入る。英語の語幹だと、ぎりぎりかつかつとなってしまう。中村尚のいうのは「物質循環がとどこおりなく行われている状態」
勝俣 BHN(basic human needs)とはどう違うのか?
栗田 BHNは市場の中での生活の指標である。
戸崎 社会的物質代謝『資本論の世界』自然から様々なものを働きかけ取り出してきて生きている。生命体を持続するため=エコロジーを維持するための物質代謝は経済学で欠けている点。当時は環境にこれほどの負荷を及ぼすようになるとは予想できなかった。
サブシステンスとは、物質性というか自然との関係。人間社会も含まれる社会的代謝でああり、その際、協業は不可欠。
栗田 サブシステンスを自分は人間の存在における基礎と考える。最低限、必要なものと、引き付けていったほうが、反グローバリズムになるのでは?また、この議論をどういう人たちに投げかけるのか。一般的な人にもっと容易に説明できないのか。
横山 サブシステンスは、一言でいうと生命(いのち)だ。
戸崎 担い手・・・サブシステンスの担い手としての市民による自分達の生活圏の維持。
横山 商品化・・・商品生産を肯定する。(中村)労働生産物が商品となるのはサブシステンスでかまわない。商品流通に媒介されたサブシステンス。
宮寺 フチタンでは市場により媒介されているが市場メカニズムに貫徹されない。安さよりも知り合い。何を商品としていいかは社会と政治が決める。
勝俣 市場に対して国家が盾にならないとならない。
横山 その地域の人たちの協議にもとづき、コントロールできる。
共同性としての顔の見える市場、顔の見えない市場。貨幣経済、市場経済。
サブシステンス 自立自存だから、コンビには一見サブシステンスに見えるが擬似的。自分達がコントロールしていけない。
グローバリゼーションはサブシステンスによって成り立つが、同時にサブシステンスを侵食していく。
郭 今まで、現代帝国主義批判としての市民連帯、自力更生をやってきた。グローバリゼーション批判としてのサブシステンス アンチテーゼのためにはメインストリームの議論
推進者の土俵の中で彼らの議論を批判し、その後に自己の論を展開していくという戦略必要。アマルティア・センなどはそうしていくことで自分の議論に有効性を持たせた。
勝俣 アマルティア・センは世界の権力について言及していない。食糧貿易などが抜けている。彼が言った、大きいものに大きいもので対抗せよというための、市民運動もグローバル化とアレンジメントの必要性について、ダウンサイズの思想がない。
第5回ミーティング(非公式) 12日夜〜深夜
<テキスト・来年授業案>
・リライトする際、権力(先生方)を使ってまとめるほうがいい。
・土曜日の授業、できたら通年は可能か? → 今年のペースでの通年はしんどすぎる。
・トピックを減らすか、あるいは、テキスト予習などを行わせる。
・私家版を出すことについてのメリットは時間的な余裕ができることと、安くなること。
・戸田先生は2回に一回はディスカッションしていた。
・2組の講師にし、1組が2回する。
・議論とバズセッション(講師が問題提起をして、学生に調査させ文章を書かせる)
・メーリングリストを活用する。
・取り上げるテーマはできるだけ易しく、高校の教科書にも近いものにしていき、かつ今まで学んだことを組替えるような問題提起をする。
勝俣 市民には2種類ある。
痛みを延ばすための市民と〜〜の市民 (このあたり重要なはずだが伊藤聞き取れず)
勝俣 市民とはあるものではなくなっていくものだ。そういう人たちの集団をシビルソサエティーと呼んでいい。北京市民は市民、公民で市のもとにある。サブジェクトしている人たち。
戸崎 誰でも安心して暮らしていける社会。越智さんが言っていたこととは、ベトナムの人たちの生活は上に立つ権力が何であっても、共同体内の基本的な所は維持していた、できていた。
勝俣 20世紀は破壊、暴力、苦痛の世紀だった。進歩史観と開発がくっつくとろくなことない。
テキスト化に向けて今ある物をベースにして、どういう章立てでいくか。
第6回ミーティング(非公式) 12日11時半〜
テキストについて
理論編・実践編をわけるのでなく、ケースを出してそれを自分の文章で理論的に
コンテンツはもう少し切り詰めたほうがいい。
半期内でおさまるように
<授業形式>
1.現実を述べるところ(ケース・現場)
2.我々はどう取り組もうとしているか(理論)。
3.学生はどう思うか。
<テキスト形式>
具体例、現実の問題から挙げて、理論は少しだけ。もっと知りたい人には上級編を提示する。
<講師人数>
約12〜13人
横山
戸崎 グローバリゼーションとサブシステンス
宮寺 世界システムとサブシステンス
伊藤 環境
栗田 環境
蓮井
小川 リプロダクション
秋山
越智 サブシステンス
山田 サブシステンス
鶴田 民衆の権利の主張
中馬 リプロダクション
追加 草嶋さん、越智さん、小川さん、栗田さん
<授業予定日>(2002年)
4月13、20、27
5月11、18、25
6月1、8、15、27
7月6、13
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